Is there anyone who can speak Japanese please? 第1話

  1. ホテルのお仕事ドットコムトップ
  2. ブログ一覧
  3. Is there anyone who can speak Japanese please? 第1話

Is there anyone who can speak Japanese please? 第1話

1993年8月アメリカ上陸

1993年8月アメリカ上陸
今から31年前に私はアメリカで働こうという志の下、サンフランシスコ国際空港に降り立った。
1993年8月、当時の日本はバブル崩壊をして、景気が悪くなりかかってきたところであった。
そしてアメリカサンフランシスコ近郊やシリコンバレーには多くの日本企業が立ち並び日本人の駐在員が多く住んでいた。
今のように多くの日本食レストランは存在しなかった。
サンフランシスコ日本町とベイエリアに日本食レストランが点在している位で、日本で食べられるような寿司やラーメンは存在しなかった。

私は日本の某物流会社に採用され、主に海外引越の営業をすることとなった。
当社も取り組みをしている日本から海外へ就職する「海外就職」の走りであった。

困惑の日々

到着し、しばらくは勤務先近くのサウスサンフランシスコのホテルに滞在し、住居の確保、車の手配等をしなければならなかったが、
会社のサポートのおかげですぐに家は決まり、上司がまもなく香港に転勤になるということで車を譲ってもらった。
非常に助かった。

私は、埼玉県にある語学教育の強い大学を卒業していた為、ある程度、英語には自信があったが、日本で学んだものがあまり通用しない。
スーパーに行き、レジで”Plastic or paper?”といきなり聞かれ、何のことかさっぱり分からず、ファストフード店に入り注文すると”For here or to go?"と聞かれ、何のことが分からなかった。

又、路上駐車をした際に標識にTow awayと書かれていたのにも理解が出来ず、車をレッカー移動されてしまったり、最初は大変だった。

一人でホテルに帰り、涙した日もあった。

しかしこういったことも1ヶ月もすれば何を言われているかも理解できるようになり、楽しく過ごすことが出来るようになった。

アメリカでの仕事

そしていよいよ仕事が始まった。
新卒で広告代理店に入社した私にとって物流業は初めての経験で、最初は海外引越の作業や倉庫内で日本に荷物を送るためにコンテナに荷詰めをしたり、梱包をしていた。

体力的にきつかったが、次第に楽しくなってきていたし、日本人の先輩達から食事に連れて行ってもらったり、ゴルフを始めさせられたりして、周囲とコニュニケーションもとれるようになってきた。

北カリフォルニア全てが自分の営業範囲

アメリカに到着して、半年が経った頃、日系企業に対して、海外引越の営業と帰任するお客様の自宅に出向き、引越の見積をすることになった。
そして営業エリアは、北カリフォルニア、ネバダ州北部地域である。
つまり、日本列島の半分位のエリアである。毎日飛込み営業の毎日が続くのであった。
エアコンの効かないマニュアルのカローラで一日300km~500km走り回った。